英(はなぶさ)ちえりの友達、羽田(はた)つぐみ。
彼女は目の前で起こっている現象について、自身の頭の処理能力が追いつかないと言う事態に見舞われていた。
彼女は朝活が終わるタイミングで職員室に行き、ちえりがランドセルを忘れて、家にとりに行ったことを担任の佐藤(さとう)塩太郎(しおたろう)先生に告げた。それで担任と一緒に、教室に向かったわけだが。
「え? 羽田(はた)さん、どういうこと?」
スポーツ刈りでメガネをかけた、まだ20代半ばの男教師、佐藤(さとう)塩太郎(しおたろう)は、そう羽田(はた)つぐみに問いかける。彼は熱血スタイルに憧れて、それを目指す生き方を心がけていた。だから服装も絶対に上下ジャージだった。しかも通常のジャージではない。どちらかと言えば、アスリートが好んで着るような機能的でスタイリッシュなデザインのジャージだった。
上は赤地で黒いラインや模様が入っている。ジャージズボンは逆に黒地に赤いラインだった。
とにかく暑いこんな日は、彼の真っ赤なジャージはその存在だけで周りの体感温度をあげるため、歓迎されていなかった。せめてジャージの上だけでも脱いで欲しい。それが周りの切なる希望だった。
「さて…問題を、整理しようか」
そういって担任は、教室の入口で、とある机を指さした。
「あそこはちえりちゃんの机だね」
「そうです」
コクリとつぐみは頷いた。ところで、つくみの顔色はさっきから悪い。
「え~と、で、あの机の上に置いてあるのは?」
「…ちえりのランドセルです」
「間違いない?」
「…水色のランドセルは、このクラスでちえりだけですから」
冷静な言い回しでつぐみは答える。
「で、ちえりちゃんは何をとりに家に帰ったんだっけ」
ここが核心部分だった。
「ランドセルです」
そのランドセルは机の上に置いてある。
「ふーむ…」
そう唸(うな)ると、教師はアゴに手をあて、考え込んでから、言った。
「あるよね、ランドセル」
「ありますね…」
うなだれる、つぐみ。
「ああ、むしろ正々堂々と、清々しいくらいに、ちえりちゃんの机の上にランドセルは君臨しておられる」
そして、担任は一番聞きたいことをつぐみに聞いた。
「ちえりちゃんは何をとりに家に帰ったんだい?」
「もー! わかんないです!」
その問に、ついに、つぐみがブチぎれた。
「予想はつきますけど、それを言いたくないです!」
「つまり…ちえりちゃんは、今朝、ランドセルを家に忘れたのではなく、昨日の夜から、学校にランドセルを忘れてた…ということかな? そして朝もそのことを気付かずに登校。つまり彼女は今頃帰宅して、ランドセルがないことに慌てている可能性が」
「ああああああ…聞こえない…聞こえません、塩太郎先生…!」
両手で両耳を抑えながら、友人の傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いに、頭からは煙、目からは水、口からは魂が出た。
「そうか…でも、羽田(はた)さん。ここまで来ると、もうちえりちゃんの長所としてとらえて行くしかないんじゃないかな。例えば、忘れっぽいと言うより…過去を引きずらない、常に前を向いて歩いている子って言うふうに解釈するのはどうだろうか?」
遠い目で、担任は言った。
大きい、担任の背中が大きい。羽田(はた)つぐみは初めて塩太郎を尊敬(そんけい)した。そうか、よく考えたら、一年以上も前から担任はちえりを扱って来たのだ。毎年クラス替えがあり、先生も変わるが、佐藤塩太郎は去年も英(はなぶさ)ちえりを受け持っていた。きっと自分の知らないところで、いっぱい葛藤(かっとう)があったのだろう。達観した感じの担任から神々しい光さえ見える。
「とりあえず、自動的に宿題をやってないだろうから、今日は居残りにしようと思う」
「そうしてください。彼女のためにも」
つぐみは目を閉じて、力なく賛成した。
塩太郎も目を閉じ、改めて教育って忍耐力なんだと思った。
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